大磯町 国府本郷 相模国府祭  2003.5.5  1/3ページ

  国府祭(こうのまち)は、むかし相模国の国府庁が置かれた国府本郷の神揃山(かみそろいやま)のお祭りと、 高天原(たかまのはら:別名おおやば:逢親場・大矢場)で行う国司祭の二つを合わせたものを言います。 
  相模国(さがみのくに)一之宮:寒川神社、二之宮:川匂神社、三之宮:比々多神社、四之宮:前鳥神社、平塚八幡宮が相模国総社である六所神社に集まり、合同で神事を行うもので、相模国を網羅する関東一の最大の祭典として、又、全国的に見ても珍しく貴重な祭りとして知られ、神奈川県の無形文化財に指定されている。
  総社に集まるとか、一之宮の地名とかは全国的あるそうですが、相模国の場合は、鎌倉幕府の所在国となり
弘安五年には二月四日を五月五日に改め、将軍の命によって国府祭が行われるようになり、別名を天下祭、端午祭とも言われるようになったそうです。その後も小田原北条氏、徳川家康も先規にならってこの祭礼の保護と助成を行ったため、この祭りが長く続き、千数百年にわたって伝わり、今日に至っている

 座問答。一之宮寒川神社と二之宮川匂神社神社で、虎の皮を前に進め優位に立つ位置をを争う神事

六所神社宮出と同時刻のため座問答の画像は寒川神社HPから借用。

 今から約1350年前に「大化の改新」が行なわれ、国の制度が一段と改められました。このとき 国々の再編成が行われ新しい国もできました。
 相模国も大化の改新以前は、大磯より東の方に「相武(さがむ)国」と西の方に「磯長(しなが)国」がありました。この二つの国が合併して相模国が成立したと言われています。
 相武国の最有力神社が寒川神社であり、磯長国のそれは川匂神社でありました。両国の合併により、どちらを一之宮にするかを決めなければなりません。これは氏子にとっては重大な問題で、どちらにするかで論争が起こりました。
 そしてこの論争は比々多神社の宮司が前鳥神社・平塚八幡宮と相談の上、仲裁に入り円満解決したと伝えられています。この論争の模様が儀式化され、神事となって伝わったのが座問答であると言われています。


関連ホームページ国府物語はこちらから<全国国府巡回録>13.相模国参照

 このお祭りは、午前七時の寒川神社をはじめとする五社発御祭(宮出)から、午後五時の総社還御祭(宮入)まで、一日がかりの祭礼だが、このレポは、正午の六所神社、大神輿の宮出から宮入までをお伝えするものです。

6神社の中で唯一神輿が無かったが、3年前に新調した

大磯各地の協力団体が集まり、仲良く宮出を担ぐ

七度半の迎神の儀、社奉迎使到着
右から一之宮、二ノ宮の順

行列の露払いで子供たちが着る印半纏

子供たちの露払いで行列が出発

総社宮立

後で素敵な舞を披露してくれる

鳥居の両サイドにずらりと提灯が、両側はカメラに入らない

菅谷神社の総代さん達も親神様の六所神社へ参拝

各種の資料をくれた可愛い巫女さん

大矢場に向かう神輿
左は大きな温室、大磯では珍しい?

会場に入場して来る神輿、最高の盛り上がり
この後、各儀式の間、長い時間待つので、ついノミスギ

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